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守られ、見られ 笑い地蔵


「道」という字は、”生首を持って歩いている姿”からきているという。

今は道を歩くことなど、スキップ刻んでほいほい歩けるものだが、

街灯どころか整備すらされていない道を歩くしかなかった時代、災いを避けるまじないの意味で、

(戦争中の由来だろうか)異族や敵の首を持って、荒道を進んでいたという。

生首はカカシ的な扱いだったのだろう。

死を以て魔を退け、呪いも退け、生きているものが最も強いのだと必死に誇示していたのだ。

しかし生首もそう軽いものではないし、おいそれと手に入るものでもないだろうし、

人災や天災、それらを100%避けられたわけではないだろう。

(効率の悪さに気づいてか)人々は「道祖神」を祀るようになる。

辻や村境、山道、などによく祀られているのを見かける、時には”交通安全”など彫られていたりもする。

いわゆる「お地蔵様」だ。

お地蔵様は地蔵菩薩と言って、菩薩様のお一人である。

6体並んでいるお地蔵様は、六地蔵と呼ばれ、六道という仏教における全ての世界に現れて、私たちの代わりに苦しみを受け、守り、救ってくれるという。

そんなお地蔵様が、昔話、怪談、またこういった妖怪のお話では、妙に恐ろしい一面を見せる時がある。

「笑い地蔵」も、その一つだ。

昔、静岡県のある村で、辻に化け物が出るという噂が立った。

宿に泊まりにきた侍がその噂を聞き、「俺が退治してみせよう」と辻へ向かった。

噂の場所へ着くと、そこには六地蔵が並んでいるばかり。

何もないじゃないか、と思いかけたその時、地蔵の一体が一つ目の化け物に変わり、大声でゲラゲラと笑い出した。

侍はあまりのことに驚いたが、すぐさま持っていた刀でその化け物を一刀の元に伏せた。

翌朝、村人が確認しに行くと、六地蔵のうち1体が袈裟懸けに斬られていた。

その後、笑い地蔵は「袈裟切り地蔵(けさきりじぞう)」とも呼ばれ、静岡県のその村には今もなお、袈裟斬り地蔵が残っている。

伝承では「お地蔵様のいたずら」や「タヌキの仕業」とある。

私には、生首をもったり刀を携えても、やっぱり暗闇を怖がっている人間達が必死で虚勢を張る姿は、

お地蔵様にもたまらなく滑稽だったのではないか、と思うのだ。

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